千年以上の歴史をつないできた
三千院。

788(延暦7)年、伝教大師最澄が比叡山に一乗止観院(現在の東塔・根本中堂)を建立し、薬師如来像を祀ったのが天台宗総本山である霊峰・延暦寺のはじまり。このとき最澄が東塔南谷の梨の木の下に構えた草庵「円融房(えんゆうぼう)」が三千院の起源です。
平安後期以降は、天皇の皇子や皇族が住職を務める格式高い門跡寺院としての歴史を刻み、近江の坂本や洛中を経て、明治維新後に現在の地に移りました。三千院という名前は霊元天皇直筆の額に由来します。
まさに極楽浄土を表した、
往生極楽院とご本尊の姿。

宸殿(しんでん)の前、苔と杉木立が織りなす庭園「有清園(ゆうせいえん)」にたたずむ往生極楽院は、三千院を象徴する崇高な場所。平安後期、念仏を称えることで極楽浄土への往生を説く『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著した恵心僧都源信が父母の菩提を弔うため、姉の安養尼(あんように)とともに建立したものと伝わります。
堂内には本尊の阿弥陀如来を中心に、向かって右側に観世音菩薩、左側に勢至菩薩(せいしぼさつ)が安置されており、阿弥陀三尊像として国宝に指定されています。
柔和な表情をたたえる阿弥陀如来は、親指と人差し指で輪をつくり、右手は指先を上に向け、左手は膝の上にのせた「来迎印」を結んでいます。観世音菩薩は蓮の花の台座を持ち、菩薩は両手を合わせ、いずれも膝を少し開いた大和坐りで上半身を前方に傾けた姿。これらは、極楽浄土からまさに今、迎えに来た瞬間であることを表しているのだといいます。
舟底のように折り上げた天井には、長い時を経て色彩の鮮やかさは失われましたが、極楽浄土で舞い踊る天女や菩薩の姿が描かれています。極楽浄土を具現化した空間で、慈悲に満ちまばゆく輝く三尊と対峙した後は、往時の極彩色を再現した天井画を展示する境内の円融蔵(えんゆうぞう)にも立ち寄りましょう。
堂内で流れる厳かな音色。
ここは「声明(しょうみょう)」の根本道場。

「声明」とは、唐から伝来し、今に受け継がれてきた仏教声楽で、謡曲や浄瑠璃など古典邦楽にも大きな影響を与えました。

古式に基づいて声明と雅楽とを融合させた三千院の「御懴法講(おせんぼうこう)」、来迎院の「修正会(しゅしょうえ)」など年中行事で声明にひたれる機会もありますが、勝林院や宝泉院の堂内では、常時BGMとして聴くこともできます。荘厳な音色に耳を傾ければ、深い安らぎが満ちてくるかのようです。


一帯に流れる「呂川(ろせん)」「律川(りっせん)」のふたつのせせらぎの名は、声明におけるふたつの調「呂(りょ)」「律(りつ)」に由来するといわれ、調がうまく回らないことを示す慣用句「呂律(ろれつ)がまわらない」の語源になったのだとか。また、呂川上流の音無(おとなし)の滝には、天台声明を中興した良忍が声明の修練を極めた瞬間、声と滝の音が和して滝の音が消えたという逸話も伝えられています。


