
第218回
京都と豊臣秀吉

第218回
京都と豊臣秀吉

豊国神社
京阪的京都ツウのススメ
第218回 京都と豊臣秀吉
秀吉が京都に残したもの
乱世を勝ち抜いた天下人・豊臣秀吉が拠点にした京都。
らくたびの若村亮さんが、秀吉の足跡をご案内します。
京都と豊臣秀吉の基礎知識
其の一、
天下人となった秀吉は朝廷のある京都を重要な拠点としました
其の二、
秀吉は多くの人が参加する盛大な茶会や花見を京都で開催しました
其の三、
現在の京都には秀吉が手掛けた町並みや御土居の一部が残っています
京都に政庁兼邸宅を構えた秀吉
1537(天文6)年、尾張国(おわりのくに)(現・愛知県)に生まれた豊臣秀吉。天下統一を目指す織田信長が本能寺の変で討たれると、その後継者として天下人へと昇り詰めました。秀吉は政権の拠点と定めた大坂で大坂城の築城などに取り組む一方、朝廷がある京都も重要視。関白就任後の1587(天正15)年、現在の上京区に造営した政庁兼邸宅の聚楽第(じゅらくだい)に移り住み、同じ年に大規模な茶会「北野大茶湯」を開催。都の人々に広く参加を呼びかけました。
今も京都に残る秀吉の足跡
秀吉は、応仁の乱で荒廃した京の都を再建するために大規模な都市改造に着手し、今の京都市中心部の礎を築きました。都の周りには御土居(おどい)と呼ばれる巨大な土塁や外堀を築き、大仏殿の造営、三条大橋や五条大橋の架橋、伏見城の築城も手掛けました。また、一族や家臣の妻など約1,300名を招いて開催した晩年の「醍醐の花見」の盛大さも現在まで語り継がれています。こうした秀吉が京都に残した有形無形の足跡をご紹介します。
京都と秀吉
| 1582(天正10)年 | 6月 | 本能寺の変の後、山崎の合戦で明智光秀軍を破る |
|---|---|---|
| 1585(天正13)年 | 7月 | 武士として初めて関白に就任 |
| 10月 | 禁裏茶会 | |
| 1586(天正14)年 | 1月 | 宮中に黄金の茶室を持ち込み、茶会を催す |
| 2月 | 聚楽第の建設に着手 | |
| 1587(天正15)年 | 9月 | 聚楽第が完成、大坂城から移り住む |
| 10月 | 北野大茶湯 | |
| 1588(天正16)年 | 4月 | 後陽成天皇が聚楽第行幸 |
| 5月 | 方広寺大仏殿着工 | |
| 1591(天正19)年 | 閏1月 | 御土居工事開始 |
| 1595(文禄4)年 | 8月 | 聚楽第を取り壊す この年方広寺大仏殿と大仏が完成 |
| 1596(文禄5/慶長元)年 | 閏7月 | 大地震で大仏が倒壊 |
| 1598(慶長3) 年 | 3月 | 醍醐の花見 |
| 8月 | 伏見城で没する |
幻の「京の大仏」
天下人の権威を示すため、奈良の大仏に並ぶ巨大な大仏と方広寺大仏殿を建立。境内は、現在の京都国立博物館や方広寺、豊国神社などを含む広大なものでした。秀吉が建立した大仏は大地震で倒壊し、大仏殿も後に火災で焼失。その後も、再建と焼失を繰り返しました。現在は京都国立博物館や豊国神社の周辺に残る巨大な石垣が、かつての大仏殿の規模を伝えています。

豊臣秀吉像 弓箴善疆賛
高台寺所蔵
幻の「京の大仏」
天下人の権威を示すため、奈良の大仏に並ぶ巨大な大仏と方広寺大仏殿を建立。境内は、現在の京都国立博物館や方広寺、豊国神社などを含む広大なものでした。秀吉が建立した大仏は大地震で倒壊し、大仏殿も後に火災で焼失。その後も、再建と焼失を繰り返しました。現在は京都国立博物館や豊国神社の周辺に残る巨大な石垣が、かつての大仏殿の規模を伝えています。
秀吉の都市改造
秀吉は、建築や土木工事に熱心で、京都の町並みを変えるような大規模な都市改造にも取り組みました。
約8年で消えた聚楽第
平安京の内裏跡に築かれた聚楽第は、石垣や堀に囲まれた城郭風で、金箔を貼った瓦で飾られた豪華な建物だったと考えられています。1588(天正16)年には、ここに後陽成天皇を招く聚楽第行幸が行われました。
聚楽第は後継者である甥の秀次に譲りましたが、秀吉は実子の秀頼が誕生すると秀次を自害に追い込み、聚楽第も取り壊してしまいました。聚楽第完成から約8年後の出来事でした

「聚楽第行幸図屏風」(右隻)
堺市博物館所蔵
聚楽第は後継者である甥の秀次に譲りましたが、秀吉は実子の秀頼が誕生すると秀次を自害に追い込み、聚楽第も取り壊してしまいました。聚楽第完成から約8年後の出来事でした
「天正の地割」で今の町並みに
平安京以来の約120m四方の町並みを整備する「天正の地割」を行いました。碁盤の目の区画に南北に道を通すことで、それまで空き地だった場所にも家が建てられ多くの人が住むようになりました。京都市中心部の三条通の北側や松原通の南側に見られる、細長い短冊形の町並みはその名残です。
都市改造の一環で、平安京の東端にあたる東京極(ひがしきょうごく)大路を整備して寺院をその東側に集めました。これをきっかけに寺町通という通り名が付いたと言われています

都市改造の一環で、平安京の東端にあたる東京極(ひがしきょうごく)大路を整備して寺院をその東側に集めました。これをきっかけに寺町通という通り名が付いたと言われています
都を守る御土居
防衛や洪水対策として、都の周りに土塁と堀を築きました。これを御土居と言い、京都の町を全長約22.5kmにわたり囲み、御土居を境に洛中と洛外が区別されました。今も市内には御土居の一部が残っています。

史跡御土居〈北区〉
秀吉と茶会
信長や秀吉の時代には、自身の権力を示す場として茶会を催したり、茶道具を家臣への褒美にすることがありました。
禁裏茶会(きんりちゃかい)
場所:京都御所〈上京区〉
1585(天正13)年、関白就任のお礼として、小御所(宮中の御殿)で正親町(おおぎまち)天皇に茶を献上しました。翌年1月には宮中に組み立て式の黄金の茶室を持ち込み、茶会を催しました。
北野大茶湯
(きたのおおちゃのゆ)
場所:北野天満宮〈上京区〉
1587(天正15)年、九州平定と聚楽第造営を祝い、大規模な茶会を開催。「茶道具を持つ人なら身分や貧富を問わず参加できる」と呼びかけ、境内には約1,000人が集まりました。秀吉も黄金の茶室を持ち込み、自慢の茶道具を披露しました。
秀吉と花見
晩年に開いた花見は、贅を尽くした一大プロジェクト。
醍醐の花見
場所:醍醐寺〈伏見区〉
1598(慶長3)年、醍醐寺で盛大な花見を催しました。秀吉の息子・秀頼や正室・北政所(ねね)、側室・淀殿のほか、家臣の妻や侍女など約1,300人が招かれました。女性たちにはひとり3着の着物が用意され、途中で衣装替えをしたそうです。武将らが亭主を務める茶屋も設けました。
前年に醍醐寺を訪れ、桜の美しさに魅せられた秀吉。畿内一円から約700本もの桜をさらに移植し、花見に備えました
※豊臣秀吉にまつわる記録や伝承には
諸説あります

ナビゲーターらくたび 若村 亮さん
らくたびは、京都ツアーの企画を行うほか、京都学講座や京都本の執筆など、多彩な京都の魅力を発信しています。
制作:2026年10月
