
第204回
自然豊かな山里 大原

第204回
自然豊かな山里 大原

京阪的京都ツウのススメ
第204回 自然豊かな山里 大原
のどかな山里に伝わる文化や風習
心安らぐ田園風景が広がる山里・大原。
都の北東に位置し、様々な文化や特産品が生まれた大原について、らくたびの谷口真由美さんがご紹介します。
自然豊かな山里 大原の基礎知識
其の一、
平安時代、大原で生産された薪(まき)が朝廷に献上されていました
其の二、
大原の天台宗の寺院には仏教音楽・声明(しょうみょう)が受け継がれています
其の三、
赤シソは約800年にわたって栽培されている大原の特産品です
朝廷との関わりが深かった大原の里
京都市左京区の北東部に位置する大原は、山々に囲まれた緑豊かな盆地です。平安時代、大原には朝廷の牧場が広がり、また宮中で燃料として使われる薪が生産されるなど、朝廷との深い関わりがありました。比叡山延暦寺の北西側のふもとということもあり、天台宗の寺院が点在し、仏教音楽である声明が継承されました。さらに、都から遠く離れており、平清盛の娘である建礼門院(けんれいもんいん)が出家後に余生を過ごした地としても有名です。
大原の自然が育んだ特産品
薪や炭は山々に囲まれた大原の特産品でした。行商の女性・大原女(おおはらめ)が京の町で頭に乗せた薪や炭を売り歩く姿は、鎌倉時代から昭和初期まで見られました。また大原の赤シソは、約800年にわたって栽培されてきた特別な品種。香りが高く美しい色の赤シソは、大原伝統のしば漬けに欠かせません。日中の寒暖差が大きい盆地である大原は、赤シソのほかにも様々な農産物が生産され、旬の新鮮な野菜が手に入ると今も人気を集めています。
古都の隠れ里 大原
都の賑わいから遠く離れた大原の、歴史や文化をご紹介します。

朝廷の牧場があった平安時代
平安時代中期の文献に「大原牧(まき)」という言葉が登場します。牧は牧場のことを指し、大原にある朝廷の牧場では、馬が飼育されていました。
和歌に詠まれた炭窯(すみがま)の里

北野天満宮/上京区
大原で炭焼きが行われていたことを今に伝えるのが、三千院の境内に安置された「売炭翁(ばいたんおきな)」と呼ばれる阿弥陀石仏。この場所に炭を焼く老人が住んでいたと伝えられています。
大原が炭窯の里として広く知られたことから、炭窯(竈)は大原を指す歌枕になりました。炭焼きの煙が立ち上る景色を、土御門(つちみかど)天皇や、後白河天皇の皇女・式子内親王などが和歌に詠んでいます
日数ふる雪げにまさる炭竈の煙もさびし大原の里
式子内親王
何日も降る雪に負けないほど、炭窯から盛んに煙が上がる冬の大原の景色の寂しさを詠んだ和歌です
寂光院(じゃっこういん)で終生を過ごした建礼門院
平清盛の娘である建礼門院は、壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門と我が子・安徳天皇の菩提を弔うために出家し、大原の寂光院で終生を過ごしました。

大原の村人は、建礼門院の心を慰めようと赤シソと夏野菜を一緒に塩で漬けた漬物を献上。建礼門院は、鮮やかな紫色の漬物を「紫葉漬(しばづけ)」と名付けたそうです
大原の里に響く声明

来迎院
天台宗には、仏教の教えを合唱のように唱える声明が伝わっています。大原には声明の道場として勝林院や来迎院が創建され、修行のために、多くの僧侶が大原を訪れたと言われています。来迎院では今でも毎週日曜日に本堂で声明を聞くことができます。
大原には「音無の滝」という滝があります。来迎院を再興した聖応(しょうおう)大師良忍(りょうにん)上人が滝に向かって声明の修行をしていたところ、滝の音と声明の声が同調し、滝の音が聞こえなくなったことからその名がつきました
薪や炭を売り歩いた大原女

鎌倉時代に始まった大原女の風習は、燃料として薪や炭を使うことが減った昭和初期まで続きました。約30~40kg、時には50kg以上にもなる荷を頭に乗せ、往復20kmを超える道を歩きました。装束は時代により変化しますが、原型は、建礼門院の侍女・阿波内侍(あわのないし)の着物姿と言われています。京都の三大祭のひとつ、10月の時代祭の行列では、室町時代の装束の大原女が登場します。
大切に守られてきた赤シソ

大原では、約800年にわたって赤シソが栽培されてきました。山に囲まれた盆地という地形のため、ほかの地域から植物の花粉が飛来することが少なく、ほかの品種と交配しなかったことで赤シソの原品種が守られてきました。爽やかな香りや鮮やかな色が特徴で、しば漬けの原材料になります。

ナビゲーターらくたび 谷口 真由美さん
らくたびは、京都ツアーの企画を行うほか、京都学講座や京都本の執筆など、多彩な京都の魅力を発信しています。
制作:2025年08月

