
第202回
幕末の京都と藩邸

第202回
幕末の京都と藩邸

京阪的京都ツウのススメ
第202回 幕末の京都と藩邸
幕末の動乱と京の藩邸
江戸時代、京都には全国各地の藩が藩邸を設けました。日本史の転換点となった幕末の藩邸や出来事についてらくたびの若村 亮さんがご紹介します。
幕末の京都と藩邸の基礎知識
其の一、
江戸時代、全国の諸大名は京都に藩邸を構えました
其の二、
幕末には、藩邸が政治活動や情報収集の場にもなりました
其の三、
幕末の歴史的な出来事の舞台となった藩邸もあります
京都に置かれた様々な藩の藩邸
1603(慶長8)年に江戸幕府が成立すると、政治の中心は京都から江戸に移りました。しかし京都は、天皇の住まいである京都御所があり、将軍が上洛した際の滞在先となる二条城が造られた西の重要拠点。各地の藩主が江戸に藩邸を構えたように、京都にも藩邸(京屋敷)が置かれました。藩邸は、宿泊所や藩の出張所のような役割を持ち、朝廷やほかの藩とのやり取り、藩に必要な物品の調達など様々な職務が行われていました。
幕末には政治的な活動の拠点にも
1853(嘉永6)年、ペリー率いる黒船が来航して日本に開国を迫ったのをきっかけに、日本は幕末の動乱期を迎えます。天皇が住む京都も政局の中心となり、度々、大名や藩士などが集まりました。幕府の拠点である二条城の周辺や、舟運が便利な高瀬川沿いに置かれた藩邸は、政治的な活動や情報収集を行う場にもなりました。現在、当時の姿が残る藩邸はありませんが、その面影に触れられる場所をご紹介します。
幕末の主な藩邸と出来事
幕末に大きな役割を果たした藩の藩邸や、当時の出来事を紹介します。

長州(ちょうしゅう)藩邸

高瀬川の一之船入の近くにあり、1864(元治元)年の蛤御門(はまぐりごもん)の変で焼失するまで、藩の尊王攘夷運動の拠点になりました。藩邸跡には、薩長同盟の締結に尽力した藩士・桂小五郎の像があります。
蛤御門の変
長州藩が、京都での勢力回復を目指して上洛し、京都御所の蛤御門の周辺で幕府軍と戦うも敗退した事件。
蛤御門の変で、長州藩は伏見の藩邸を含めた3方面に兵力を配置。伏見藩邸からは約500名の兵が御所に向け進軍しましたが攻撃を受け敗走。伏見藩邸も焼失しました
薩摩(さつま)藩邸/二本松藩邸

京都に複数の藩邸を設けた薩摩藩。相国寺南側の二本松藩邸は、薩長同盟の成立に向けて薩摩藩と長州藩の会談が行われた場所のひとつとされています。
薩長同盟
対立していた薩摩藩と長州藩の間で結ばれた、江戸幕府を打倒するための同盟。
薩摩藩の伏見藩邸は、参勤交代で江戸に向かう際の藩主の宿になりました。参勤交代の途中に、藩主が朝廷と接触することは禁じられていたため、京都御所に近い市中の藩邸に泊まることはありませんでした
若狭小浜(わかさおばま)藩邸

1863(文久3)年に将軍後見職として上洛した、後の第15代将軍・一橋慶喜(よしのぶ)は、徳川家と縁のある若狭小浜藩邸を滞在先としました。将軍就任後もここで様々な立場の要人と協議を重ね、大政奉還の構想を練ったと言われています。
大政奉還
江戸幕府の将軍が、政権を朝廷に返上することを申し入れ、認められた出来事。
土佐(とさ)藩邸

土佐藩を脱藩した後、江戸などで活動していた坂本龍馬は、1863(文久3)年に高瀬川沿いの土佐藩邸で数日間謹慎することで、脱藩の罪を許されました。幕末には現在の京都大学北部構内にあたる場所に土佐白川藩邸が置かれ、土佐藩出身の中岡慎太郎が討幕のために組織した「陸援隊」の拠点になりました。
土佐藩邸の敷地には、岬神社(土佐稲荷)がありました。地域の人々が厚く信仰していたため、土佐藩邸ではお参りをする人に限り敷地を通り抜けることを許していたそうです
幕末には寺院も滞在先に

幕末の京都には、治安維持などのために全国各地の大名が大勢の藩士を率いて上洛しました。藩邸が手狭で藩士を全員収容できない場合、寺院や旅館にも滞在していました。会津藩は、藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職に就任したことに伴い、多くの藩兵が上洛し、金戒光明寺を最初の本陣としました。境内には大小52の宿坊があり、1,000人ほどが駐屯できたと考えられています。

ナビゲーターらくたび 若村 亮さん
らくたびは、京都ツアーの企画を行うほか、京都学講座や京都本の執筆など、多彩な京都の魅力を発信しています。
※藩邸での出来事は諸説あります
制作:2025年06月

