
第156回
貴族の別荘地・伏見

第156回
貴族の別荘地・伏見

鳥羽離宮復元模型(京都市平安京創生館)
京阪的京都ツウのススメ
第156回 貴族の別荘地・伏見
平安貴族たちが心癒やした地
平安貴族の別荘地として賑わった伏見。
その中でも代表的な伏見山荘と鳥羽離宮について、らくたびの森明子さんが紹介します。
貴族の別荘地・伏見の基礎知識
其の一、
ふたつの天皇陵が築かれ、天皇や皇族、貴族とのゆかりの地になりました
其の二、
奈良・大阪への交通の要衝地で、風光明媚(ふうこうめいび)な遊興の地としても人気でした
其の三、
伏見山荘や鳥羽離宮など、多くの貴族たちの別荘地として栄えました
景勝地として知られた伏見
現在は鉄道や高速道路のインターチェンジ、住宅街や工場などがひしめく伏見。古代には渡来人・秦(はた)氏の農耕の拠点となり、奈良時代には交通の要衝として街道・水運が整備されました。そして平安時代から応仁の乱の頃までは、風光明媚な遊興地や景勝地として貴族たちでにぎわい、伏見の名が広く知られるようになります。その代表格が指月(しげつ)の丘の伏見山荘、そして桂川と鴨川の合流地点に造営された鳥羽離宮です。
伏見山荘と鳥羽離宮
指月の丘と呼ばれた地に建てられたのが、藤原頼通の息子で伏見長者と呼ばれた橘俊綱(たちばなのとしつな)の別荘・伏見山荘です。また鳥羽離宮は、白河・鳥羽上皇の院政期の政治・経済・文化の中心となった場所。広大な地に池を造って多くの殿舎を建て、さらに孫の鳥羽上皇も仏殿などを増築しました。現在では、伏見山荘・鳥羽離宮ともその名残はあまりありませんが、当時を思い浮かべながら散策してみると、違った風景に見えてくるかもしれません。
水が豊富で風光明媚とうたわれた地
平安貴族たちが愛した当時の伏見
伏見の別荘地化
仁明(にんみょう)天皇が埋葬されたことで天皇や皇族との関わりが始まり、桃山丘陵には寺院の造営や貴族たちの別荘が増え、やがて「伏見」は別荘地の代名詞に。
深草陵(ふかくさのみささぎ)
平安時代初期の第54代仁明天皇陵。かたわらに天皇ゆかりの清涼殿を移した嘉祥寺(かしょうじ)[現在は、深草北陵の東側に移転]が置かれました。
深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)
天皇十二帝陵、深草法華堂(ほっけどう)などとも呼ばれ、第89代後深草天皇をはじめ、12人の歴代天皇とひとりの親王がまつられています。
平安時代末期の歴史物語『今鏡』には、橘俊綱と白河上皇が、伏見山荘と鳥羽離宮のどちらが優れているか問答をした話が記されています
伏見山荘
観月の景勝地に建てた別荘
現在の伏見区桃山町泰長老の一帯(観月橋駅北東付近)。「宵の天空に光る月」「宇治川の川面に映る月」「巨椋池(おぐらいけ)に揺れる月」「盃(さかずき)に浮かぶ月」という4つの月を1度に楽しめることから、四月(しげつ)と呼ばれ、それが指月になったという絶景地でした。日本最古の庭園解説本『作庭記』を書いたとされる橘俊綱が自ら造園を行った伏見山荘は、「これほど風流で趣のある庭はない」と人々から称賛されるほどでした。
後に白河上皇に献上され、伏見殿・船津御所・伏見離宮とも呼ばれました。南北朝時代には北朝に受け継がれ、その後、伏見宮家が譲り受けました。

平安時代の巨椋池とその周辺推定図

葭島矢倉町・向島上林町・向島津田町・槇島などのような町名は、 この辺りがかつて巨椋池に浮かぶ島々だったことに由来すると言われます
鳥羽離宮
政治・文化・宗教の中心に
鳥羽離宮は1086(応徳3)年に白河上皇が創建した離宮。現在の京都市南区上鳥羽、伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯の、約180万m2もの敷地に造営されました。当時の鴨川は今より東を流れていて、桂川との間の水郷地を利用し広大な池に沿って御殿・仏閣・庭園が立ち並ぶ壮麗なものとなりました。ここで舟遊びや歌会・雅楽・競べ馬などが頻繁に行われていたようです。
白河・鳥羽上皇による院政の拠点となった鳥羽離宮ですが、保元の乱(1156年)や承久の乱(1221年)によってその後は荒廃。現在は、鳥羽離宮の築山「秋の山」は鳥羽離宮公園に、また馬場殿跡は城南宮の境内となり、鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院などが残されています。

平安時代の桂川・鴨川と鳥羽離宮推定図

安楽寿院は、鳥羽上皇が東殿を仏寺に改めた寺。今でも平安時代中〜後期の三尊石仏や五輪石塔などを見ることができます

ナビゲーターらくたび 森 明子さん
らくたびは、京都ツアーの企画を行うほか、京都学講座や京都本の執筆など、多彩な京都の魅力を発信しています。
制作:2021年7月

