沿線で旅する
東海道五十七次

東海道五十三次に4つの宿場を加えた東海道五十七次は、かつて江戸と大坂の高麗橋を結んだ街道沿いの宿場です。当時の面影が残る町並みやゆかりのスポットを京阪電車で訪ねてみませんか。

  • 第6回

    八幡・橋本

    石清水八幡宮駅・橋本駅

    旅人でにぎわった門前町と間宿(あいのしゅく)

    江戸時代、石清水八幡宮の門前町として栄えた京都・八幡には、全国から多くの参詣者が集まりました。参詣口のひとつだった橋本は、江戸時代初期、荷を運ぶ人足を備えた宿場だったとされます。1694(元禄7)年頃にその役割が停止され間宿となりますが、淀川の渡し舟と東海道が交わる立地もあり、大勢の旅人が行き交いました。

    江戸時代末頃に制作された錦絵。左手前が淀城、中央奥が男山と石清水八幡宮で、間に架かるのは淀大橋。男山のふもとには八幡と橋本の町があります「淀川八幡山勝景」国立国会図書館デジタルコレクション

    江戸時代末頃に制作された錦絵。左手前が淀城、中央奥が男山と石清水八幡宮で、間に架かるのは淀大橋。男山のふもとには八幡と橋本の町があります
    「淀川八幡山勝景」国立国会図書館デジタルコレクション

    石清水八幡宮

    石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう

    平安時代初期から男山に鎮座する神社。1634(寛永 11)年に徳川家光によって再建された国宝の社殿も見所です

    男山展望台

    男山展望台おとこやまてんぼうだい

    桂川・宇治川・木津川や京都市方面を見渡せ、交通の要衝であった八幡の地を感じられます

    橋本の渡し場の碑

    橋本はしもとの渡わたし場ばの碑ひ

    かつて、橋本と淀川対岸を結んだ渡し舟の乗り場を示す道標。東海道と西国街道をつなぎ、人々の往来を支えました
    写真提供:八幡市教育委員会

    東海道の名物菓子を受け継ぐ

    江戸時代中期から、東海道・大津宿の名物として知られた走井餅。1910(明治43)年、男山のふもとへ移転したのが『やわた走井餅老舗』です。刀を模した餅菓子は、現在では石清水八幡宮の門前菓子としても愛されています。

    走井餅(ドリンク付き)/600円から

    「走井餅(ドリンク付き)/600円から」

    石清水八幡宮駅・橋本駅下車

  • 第5回

    淀宿

    淀

    三川合流の地で発展した淀城の城下町

    かつて桂川・宇治川・木津川の合流地点だった淀の町は、京都と鳥羽街道でつながり、古くから水陸交通の要地でした。1623(元和9)年、廃城になった伏見城の代わりに淀城が築かれ、京都南部の交通と防衛を担う城下町として発展。伏見宿から近いこともあり宿場町としては小規模で、本陣・脇本陣は置かれませんでしたが、500隻を超える淀船(二十石船)の母港となるなど、重要な役割を果たしました。

    江戸時代、船から見える城壁の水車は淀の名物でした「淀川両岸一覧 上り舩之部下」京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ

    江戸時代、船から見える城壁の水車は淀の名物でした
    「淀川両岸一覧 上り舩之部下」
    京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ

    淀城跡公園

    淀城跡公園よどじょうあとこうえん

    徳川秀忠により中州に築かれた淀城の跡地。本丸石垣や天守台、水堀の一部が今も残ります

    淀の水車

    淀よどの水車みずぐるま

    淀城内へ水を引いていた巨大な水車がモニュメントとして復元されています

    與杼神社

    與杼神社よどじんじゃ

    水難除けの守護神として信仰を集めた古社。明治時代に桂川の畔から、現在の淀城本丸跡へ移されました

    京都競馬場に残る往時の面影

    京都競馬場の「淀の坂」は、高低差約4.3mもあるコースの難所。小高い丘になった第3コーナーは豊臣秀吉が巨椋池(おぐらいけ)の周辺に築いた堤防・太閤堤の跡だと言われています。コースの内側には巨椋池の名残とされる池も。

    ©JRA

    京都競馬場

    淀駅下車

    監修/歴史人編集部

  • 第4回

    伏見宿(後編)

    中書島・伏見桃山・
    桃山南口

    城下町の誕生から幕末の動乱へ

    豊臣秀吉が築いた伏見城とともに発展が始まった町。城は関ヶ原の戦いの前哨戦で大半が焼失。徳川家康が再建し、城下町には銀貨の鋳造を行う銀座も開設されました。1619(元和5)年には伏見宿が設けられ、伏見城の廃城後も商業都市として栄えました。また幕府の直轄地として奉行所が置かれ、京都の警備や西国支配の要衝として機能し、幕末には鳥羽・伏見の戦いの舞台ともなりました。

    1863(文久3)年出版の名所案内。右上が伏見の町「宇治川両岸一覧 上」京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ

    1863(文久3)年出版の名所案内。右上が伏見の町
    「宇治川両岸一覧 上」
    京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ

    寺田屋

    寺田屋てらだや

    多くの旅人を迎えた船宿。幕末に坂本龍馬が襲撃された事件が有名で、激動の時代を今に伝えています

    明治天皇陵

    明治天皇陵めいじてんのうりょう

    伏見城跡に造営された明治天皇の陵墓。長い石段の上からは京都市南部を一望できます

    伏見奉行所跡

    伏見奉行所跡ふしみぶぎょうしょあと

    江戸時代に伏見を治めた奉行所の跡地。鳥羽・伏見の戦いの際に激戦が繰り広げられ焼失しました

    大名や旅人に愛された煉羊羹ねりようかん

    『総本家 駿河屋善右衛門 伏見本舗』は室町時代創業の老舗和菓子店。なめらかな口当たりと上品な甘さが魅力の「煉羊羹」が看板菓子です。5代目が考案したと伝わり、東海道を行き交う人々に親しまれていました。

    煉羊羹

    中書島駅・伏見桃山駅・桃山南口駅下車

    監修/歴史人編集部

  • 第3回

    伏見宿(前編)

    中書島・伏見桃山

    水とともに発展した宇治川沿いの港町

    1594(文禄3)年に豊臣秀吉が築いた伏見城により発展した伏見。築城に合わせて整備された伏見港は、淀川水運によって伏見と大坂を結ぶ重要な拠点になりました。江戸時代初期の1614(慶長19)年には角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した運河・高瀬川で京都の中心部とも水路でつながり、その後、人と物資の往来はさらに増加。東海道屈指の規模を誇る宿場町となりました。三十石船が発着する伏見港周辺には船問屋や船宿が軒を連ね、人口は約2万4千人に及んだと言われます。

    行き交う船や荷物を運ぶ人など、港町のにぎわいが描かれています 「淀川両岸一覧 上り舩之部下」京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ

    行き交う船や荷物を運ぶ人など、港町のにぎわいが描かれています
    「淀川両岸一覧 上り舩之部下」
    京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ

    伏見十石舟

    伏見十石舟ふしみじゅっこくぶね

    江戸時代に酒や米、旅客を運んだ船をイメージした遊覧船。かつての船運の歴史を今に伝えています

    御香宮神社

    御香宮神社ごこうのみやじんじゃ

    名水「御香水」が湧く古社。豊臣秀吉や徳川家康も崇敬しました

    伏見港

    伏見港ふしみこう

    江戸時代に水運で栄えた港。その中心地だった京橋付近では階段状の船着場・雁木(がんぎ)が再現されています

    豊富な地下水と水運が支えた酒造り

    良質な伏流水に恵まれた伏見では古くから酒造りが行われ、江戸時代には淀川水運によって伏見の酒産業は発展していきました。月桂冠もその歴史を受け継ぐ酒蔵のひとつ。「月桂冠大倉記念館」では、酒造用具類の展示やきき酒を通して、伏見の酒造りに触れられます。

    月桂冠大倉記念館

    中書島駅・伏見桃山駅下車

    監修/歴史人編集部

  • 第2回

    三条大橋さんじょうおおはし

    三条

    京の玄関口として栄えた交通の要衝

    江戸・日本橋から始まる東海道五十三次の終点であった京都・三条大橋。国内初の石柱橋として、1590(天正18)年に豊臣秀吉が改修したとされています。江戸時代を通じて、京都の東の玄関口として重要な役割を担い、商人や旅人の往来で活気にあふれていました。その様子は歌川広重をはじめとする多くの浮世絵師も描いています。現在も人々でにぎわう交通の要であり、その歴史を受け継いでいます。

    東海道五十七次の西の終着地で、幕府が管理する公儀橋であった高麗橋 「浪花百景之内 高麗橋」 国立国会図書館デジタルコレクション

    1833~34(天保4~5)年頃の制作とされる歌川広重による三条大橋
    「東海道五拾三次 大尾 京師・三條大橋」国立国会図書館デジタルコレクション

    弥次さん喜多さん像

    弥次やじさん喜多きたさん像

    江戸時代後期に十返舎一九(じっぺんしゃいっく)によって書かれた旅物語『東海道中膝栗毛』の主人公がモデル

    粟田神社

    粟田神社あわたじんじゃ

    京都の東の玄関・粟田口に鎮座し、東海道を旅する人々が安全を祈願したと伝わります

    三条白川橋道標

    三条白川橋道標さんじょうしらかわばしどうひょう

    1678(延宝6)年に立てられた京都最古とされる道標。当時から周辺が観光地であったことがうかがえます

    三条大橋の擬宝珠ぎぼしにも注目

    三条大橋はこれまで何度も改修・架け替えが行われていますが、擬宝珠の一部は残されてきました。「豊臣」の文字を含む銘文が刻まれたものの中には、1864(元治元)年の池田屋騒動の刀傷だと言われる跡が付いた擬宝珠もあります。

    三条大橋の擬宝珠

    三条大橋

    三条駅下車すぐ

  • 第1回

    東海道五十七次とは
    ~江戸と大坂をつないだ宿場~

    旅人や物資が行き交った街道

    1596(文禄5)年、豊臣秀吉は淀川の氾濫を抑え、大坂城と伏見城を最短距離で結ぶために淀川左岸に堤防(文禄堤)の築堤を命じました。その堤上の道が京街道となり、江戸時代には徳川家康が整備を開始。東海道五十三次との分岐点である現滋賀県大津市の髭茶屋追分ひげちゃやおいわけから、伏見・淀・枚方・守口の4つの宿場を通り、高麗橋まで街道を延長。江戸と大坂を結ぶ東海道五十七次と呼ばれるようになりました。

    東海道五十七次の西の終着地で、幕府が管理する公儀橋であった高麗橋 「浪花百景之内 高麗橋」 国立国会図書館デジタルコレクション

    東海道五十七次の西の終着地で、幕府が管理する公儀橋であった高麗橋
    「浪花百景之内 高麗橋」 国立国会図書館デジタルコレクション

    京阪沿線にある4つの宿場町

    第五十四

    ❶伏見宿ふしみしゅく

    伏見城の城下町として栄えた後、人口2万人を超える大規模な宿場町として賑わいました。古くから酒造りが盛んで、伏見の酒は淀川を下り、大坂の船問屋を通じて江戸へ出荷されました。

    第五十五

    ❷淀宿よどしゅく

    桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる地で、古くから物資輸送の重要拠点でした。隣の伏見宿が近かったため比較的小規模でしたが、江戸時代には淀城の城下町として発展しました。

    第五十六

    ❸枚方宿ひらかたしゅく

    京街道のほぼ中間地点で、三十石船の中継港として繁栄。淀川を進む船に「餅くらわんか、酒くらわんか」と呼びかけて、舟上で商いをする「くらわんか舟」はこの地ならでは。

    第五十七

    ❹守口宿もりぐちしゅく

    文禄堤の上に形成された、東海道57番目となる最後の宿場。大坂との距離が近く、乗り継ぎ用の馬は置かれませんでした。守口大根などの野菜を使った守口漬けが名産品。

    地図

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