• 紫式部墓所
    紫式部の最期にまつわる
    言い伝え

    1年にわたってお届けしてきた本連載も最終回。今回は紫式部の最期をひも解いていきましょう。紫式部が仕えた中宮・彰子は1011(寛弘8)年の一条天皇の崩御(ほうぎょ)を機に藤原道長の邸宅だった枇杷殿(びわどの)に移り、紫式部もそれに伴いました。その後、紫式部がいつ頃まで仕えたかは定かではありませんが、生まれ育った京都・紫野の地に戻って最期を迎えたとも伝えられています。
    紫式部の墓所については正平年間(1346〜70)に四辻善成(よつつじよしなり)が著した『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』に記述があリ、そこには、紫式部の墓が雲林院の塔頭・白毫院(びゃくごういん)の南にある小野篁(おののたかむら)の墓の西にあると書かれています。それに当てはまるとされるのが、現在の北大路堀川(京都市北区)を下がった西側にある墓所。この場所はかつて雲林院の境内の一部だったと考えられており、実際に小野篁の墓所と並んで紫式部の墓所があります。
    小野篁とは平安時代初期の公卿(くぎょう)で、昼間は朝廷に務め、夜になると死後の世界へ赴(おもむ)き閻魔(えんま)大王による裁きを補佐していたという逸話を持つ人物。ふたりが生きた時代には100年以上もの隔たりがあるのに、なぜ隣同士に葬られているのでしょう。
    仏教では嘘をつくと地獄に落ちるという教えがあります。『源氏物語』は創作の物語なので、紫式部は死後、作り話で人々を惑わせたという罪で地獄に落ちたと考えられていました。そこで後の世の人々が冥士(めいど)通いの伝説を持つ小野篁に助けてもらおうと隣に墓所を置いたとも言われているのです。不思議な逸話があるその場所を訪れてみましょう。

    紫式部墓所

    右側は紫式部墓所を示す石碑。左側の石碑には「小野篁卿墓」と刻まれている。

    右側は紫式部墓所を示す石碑。左側の石碑には「小野篁卿墓」と刻まれている。

    紫式部の墓所から歩いて約20分のところにある千本ゑんま堂は小野篁によって開かれたとされる古刹。この境内にも南北朝時代に建てられたという紫式部の供養塔がある。

    紫式部の墓所から歩いて約20分のところにある千本ゑんま堂は小野篁によって開かれたとされる古刹。この境内にも南北朝時代に建てられたという紫式部の供養塔がある。

  • 源氏香
    香りで物語に思いを馳せる風雅な遊び

    『源氏物語』の三十二帖「梅枝(うめがえ)」の冒頭には薫物(たきもの)合わせのシーンがあります。薫物合わせとは、テーマに合わせて作った独自の練香(香の粉末を調合して練り合わせたもの)の香りの優劣を競う遊び。「梅枝」の中で光源氏は、成人式の後に東宮(皇太子)への入内が決まっている愛娘・明石の姫君のために、六条院の女御たちに薫物を競わせています。
    香の文化が中国から日本に伝えられたのは奈良時代。当初は仏教儀式に使用したようですが、平安時代には香の文化は貴族社会において重要なたしなみとなり、室町時代には香道と呼ばれる芸道として確立されました。
    香道では、一定の作法に沿って香木をたいて香りを聞き、故事や詩歌、物語の情景をイメージする「組香(くみこう)」が主流。そのひとつである「源氏香」は享保(きょうほう)年間(1716〜36年)に考案されたとされます。5種類の香木を25包に分け、その中からランダムに選ばれた5包の香りを聞き、同じ香りかそうでないかを当てます。回答には「源氏香図」という図を使います。五本の縦線が香りを聞いた香木を表し、同じ香リがあれば横線でつなぎます。この「源氏香図」は五十二通りあり、『源氏物語』全五十四帖のうち、「桐壺」と「夢浮橋」を除く五十二の帖名がそれぞれに付けられています。
    京都御苑の西側にある江戸時代創業の香木店「山田松香木店」では、月に1回程度、この「源氏香」の体験を行っています(要予約)。組香では、物語の情景を香りから想像することが大切。『源氏物語』の成立から数百年の時を超えて生まれたこの風流な遊びを体験してみませんか。

    山田松香木店 京都本店

    光源氏の元へ練香が届けられた様子を描いた「源氏絵鑑帖」梅枝〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

    光源氏の元へ練香が届けられた様子を描いた「源氏絵鑑帖」梅枝〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

    聞香の様子。香りが逃げないように手でそっと香炉を覆う。

    聞香の様子。香りが逃げないように手でそっと香炉を覆う。

    美しい絵とともに源氏香図が描かれた『源氏香図帖』(山田松香木店蔵)

    美しい絵とともに源氏香図が描かれた『源氏香図帖』(山田松香木店蔵)

  • 雲林院
    晩年を過ごしたと伝わる紫野むらさきのの寺院

    京都市北区にある船岡山の麓(ふもと)にたたずむ雲林院は、紫式部が晩年を過ごしたとされる紫野の古刹(こさつ)。寛弘2(1005)年頃に中宮・彰子の元へ出仕した紫式部は、8年後に宮仕えを終えたと言われています。その後、生まれた場所である紫野に戻り、雲林院の塔頭(たっちゅう)・白毫院(びゃくごういん)か、あるいはその近辺で晩年を過ごしたという説が残っています。
    雲林院のルーツは淳和(じゅんな)天皇(在位823~833年)の離宮・紫野院で、後に歌人としても知られる僧正・遍昭(へんじょう)を住職に招き、雲林院という寺院に改められました。当時は広大な境内の大寺院でしたが、次第に衰え、応仁・文明の乱で焼失。現在の雲林院は江戸時代に再建されたものです。
    雲林院の名は『古今和歌集』『枕草子』『大鏡』など平安時代に書かれた書物の多くに見られ、もちろん『源氏物語』にも登場しています。十帖「賢木(さかき)」で、何度申し入れても会ってくれない愛しい継母・藤壺の態度にショックを受けた光源氏が、仏の教えに触れようと参詣したのが雲林院。都からそう離れていないにもかかわらず、都にはない風情ある秋の景色に光源氏は心を癒やされます。
    平安時代に平安京郊外の景勝地として貴族に好まれた船岡山と、その麓にたたずむ雲林院。宮中を離れた紫式部も紫野の自然に心が和んだのかもしれません。その雰囲気を感じにこの場所を訪れてみませんか。

    雲林院

    • 7時~16時
    • 075-431-1561
    • 京都市北区紫野雲林院町23 MAP
    • 出町柳駅からバス「大徳寺前」下車すぐ

    現在の雲林院。2000(平成12)年に寺の東側、2023年には西側で発掘調査が行われ、それぞれから庭園や建物の跡が見つかっている

    現在の雲林院。2000(平成12)年に寺の東側、2023年には西側で発掘調査が行われ、それぞれから庭園や建物の跡が見つかっている

    かつて雲林院の境内だった大徳寺塔頭・真珠庵には紫式部の産湯に使われたとされる井戸が残されている。9月20日(金)から12月8日(日)までの特別公開で観覧が可能

    かつて雲林院の境内だった大徳寺塔頭・真珠庵には紫式部の産湯に使われたとされる井戸が残されている。9月20日(金)から12月8日(日)までの特別公開で観覧が可能

    御所のあった平安宮と雲林院の位置関係を示した復元イラスト※画:梶川敏夫に加筆

    御所のあった平安宮と雲林院の位置関係を示した復元イラスト
    ※画:梶川敏夫に加筆

  • 夢浮橋ひろば
    『源氏物語』の最終帖にちなんだ広場

    『源氏物語』の最後の十帖は光源氏亡き後の物語。息子とされる薫(かおる)と孫の匂宮(におうのみや)を中心にストーリーが進行し、京都・宇治が主な舞台になることから「宇治十帖」と呼ばれます。ヒロインは、光源氏の異母弟・八の宮の娘である大君(おおいぎみ)と中君(なかのきみ)、浮舟の3人。自身の出生に悩む薫と自由奔放な匂宮、そんな彼らに翻弄され、苦悩する女性たちの姿が描かれます。
    平安時代の宇治は、藤原氏をはじめとする貴族たちに別荘地として好まれていました。そんな中、ひときわ目を引いたのは、今も宇治のシンボルとも言える宇治川と飛鳥時代には橋が架けられていたとされる宇治橋。紫式部もその風景を見たからこそ、物語の舞台を宇治にしたのかもしれません。
    五十一帖 「浮舟」で、薫と匂宮の両方と関係を持ってしまった浮舟は、苦悩の末に宇治川に身を投げようとし、そこで姿を消してしまいます。入水を決意したという内容の和歌が残されていたことから、薫も匂宮も身投げだと考えます。しかし、浮舟の一周忌が過ぎた頃、薫は浮舟が生きていると知るのです。薫はすぐに「会いたい」と手紙を送りますが、浮舟は受け入れてはくれません。
    そして最終帖 「夢浮橋」で、「かつて浮舟を囲っていた薫は、誰かが以前の自分のように浮舟を囲っているのではないかと思いを巡らせて…」という意味の含みを持たせた文章で物語は終わります。
    今、宇治橋西詰の「夢浮橋ひろば」では、紫式部の石像とともに悠々と流れる宇治川を見ることができます。紫式部が眺めたかもしれないその風景を見ながら、彼女が物語を通じて伝えたかった思いについて考えてみませんか。

    夢浮橋ひろば

    • 京都府宇治市宇治蓮華 MAP
    • 宇治駅下車 南へ徒歩約5分

    夢浮橋ひろばにある巻物を広げる紫式部像。背後には宇治川に架かる宇治橋が見える

    夢浮橋ひろばにある巻物を広げる紫式部像。背後には宇治川に架かる宇治橋が見える

    宇治には「宇治十帖」にちなんだ古蹟(こせき)が点在しており、古蹟巡りも楽しめる。写真はさわらびの道にある総角(あげまき)の古蹟

    宇治には「宇治十帖」にちなんだ古蹟(こせき)が点在しており、古蹟巡りも楽しめる。写真はさわらびの道にある総角(あげまき)の古蹟

    光浮舟の元を薫が訪ねるシーンを描いた「源氏絵鑑帖」浮舟〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

    浮舟の元を薫が訪ねるシーンを描いた「源氏絵鑑帖」浮舟〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

  • 京都御所
    『源氏物語』の主な舞台

    『源氏物語』の主人公・光源氏は、桐壺帝の第2皇子として生まれました。光源氏が育った場所は京都御所。物語は京都府・宇治、兵庫県の須磨・明石など様々な場所が舞台となりますが、やはり中心となるのは京の都、そして京都御所です。御所は内裏(だいり)とも呼ばれ、平安時代では政治の中心であり、天皇の住まいも兼ねていました。その中で、最も格式の高い正殿が紫宸殿(ししんでん)。天皇の元服や即位など、重要な儀式は紫宸殿で行われていました。
    『源氏物語』の八帖「花宴(はなのえん)」には、紫宸殿で花見の宴が開かれたある夜の出来事が書かれています。宴の後、すっかり酒に酔った光源氏は、愛しい継母(ままはは)・藤壺に会おうと内裏の中を歩いていました。すると、弘徽殿(こきでん)の細殿で「朧月夜(おぼろづきよ)に似るものぞなき」と歌いながら歩く女性の姿が 。その姿に魅せられた光源氏は、半ば強引にその人の袖をつかみ、ふたりは結ばれます。朧月夜の女君と呼ばれるこの女性は、実は光源氏の敵役とも言える弘徽殿の女御の妹・六の君で、この後、東宮(皇太子)のもとへ入内(じゅだい)することが決まっていました。この夜のことがきっかけで、光源氏は都に居づらくなり、須磨に退去することとなります。
    物語の舞台となった京都御所は幾度も火災に遭い、移転を繰り返しています。現在の建物は幕末の1855(安政2)年に建てられたものですが、平安時代の建築様式が忠実に再現されています。「花宴」の舞台となった紫宸殿や、天皇の日常生活の場であった清涼殿などは観覧が可能。物語のシーンを想像しながら、京都御所を訪れてみませんか。

    京都御所

    • 9時~16時20分(受付)
      ※季節によって異なる
      月曜(祝・休日は翌日)は参観休止
      ※そのほか行事等による休止あり
    • 075-211-1215
    • 京都市上京区京都御苑内 MAP
    • 神宮丸太町駅・出町柳駅下車 西へ徒歩約20分
    • 詳しくはホームページをご覧ください

    現在の紫宸殿。南を向いて立つことから南殿とも呼ばれる

    現在の紫宸殿。南を向いて立つことから南殿とも呼ばれる(画像提供:宮内庁)

    清涼殿。七帖「紅葉賀」には、清涼殿の前庭で光源氏が舞を舞うシーンがある(画像1・2提供:宮内庁)

    清涼殿。七帖「紅葉賀」には、清涼殿の前庭で光源氏が舞を舞うシーンがある(画像提供:宮内庁)

    光源氏と朧月夜の女君の出会いのシーンを描いた「源氏絵鑑帖」花宴〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

    光源氏と朧月夜の女君の出会いのシーンを描いた「源氏絵鑑帖」花宴〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

  • 鞍馬寺
    「北山のなにがし寺」の有力候補

    『源氏物語』の主人公・光源氏と最愛の妻・紫の上。ふたりの関係は、「北山のなにがし寺」近くの庵に暮らす少女・若紫(後の紫の上)を光源氏が見初めることから始まります。
    熱病である瘧病(わらわやみ)にかかった光源氏は、ある人に「北山のなんとかという寺に優れた修行僧がいます。病を治すにはそこへ行くと良いのでは」と勧められ、人目を忍んでその寺へ向かいました。光源氏が寺の付近を散歩していると、小柴垣がきれいな小さな庵に、愛しい継母・藤壺によく似た少女が老尼といるのを見つけます。その少女こそ若紫でした。光源氏は少女を引き取り、理想の女性に育てあげ、後に妻(紫の上)とするのです。
    この「北山のなにがし寺」のモデルには諸説ありますが、桜の見頃が晩春であることや、九十九(つづら)折りの山道が続き、後方の山から京の都が一望できることなどが物語に書かれており、それらに当てはめて考えると鞍馬寺が有力です。
    鞍馬寺は、寺伝によると770(宝亀元)年に奈良の唐招提寺を開いた鑑真(がんじん)和上の高弟・鑑禎(がんちょう)上人が現在の地に毘沙門天をまつったことを起こりとする古刹。仁王門から本殿までは約1キロにわたって曲がりくねった山道が続いています。
    光源氏はこの「なにがし寺」で『涙を誘う滝の音がする』ということを歌の中で詠んでいます。それにちなんで後世の人が名付けたのでしょう、仁王門からおよそ300メートル上がったところには今も「涙の滝」と呼ばれる小さな滝が流れています。その清らかな音を聞きに、鞍馬寺を訪れてみませんか。

    鞍馬寺

    鞍馬寺の仁王門。この門の向こうは浄域となる。

    鞍馬寺の仁王門。この門の向こうは浄域となる。

    境内にある涙の滝。そばに光源氏の歌を記した駒札が立つ。

    境内にある涙の滝。そばに光源氏の歌を記した駒札が立つ。

    光源氏が若紫を見初めるシーンを描いた源氏絵。〈源氏物語絵色紙帖 若紫 詞青蓮院尊純〉

    光源氏が若紫を見初めるシーンを描いた源氏絵。〈源氏物語絵色紙帖 若紫 詞青蓮院尊純〉
    ColBase

  • 廬山寺
    先祖から受け継いだ「つつみてい」跡に立つ寺院

    京都御苑の東側にたたずむ廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。紫式部が生まれるよりもずっと前の平安時代前期、廬山寺のある場所には紫式部の曽祖父にあたる中納言藤原兼輔の邸宅が立っていました。当時の鴨川は現在よりも川幅が広く、兼輔の邸宅はその堤にあったことから、邸宅は「堤第」、兼輔は「堤中納言」とも呼ばれていたそうです。
    堤第は兼輔から子の雅正、孫の為時へと受け継がれ、為時の娘である紫式部もこの堤第で育ちました。紫式部は20代後半で藤原宣孝と結婚しますが、当時の結婚は夫が妻の家へ通う「妻問婚」。宣孝とは3年ほどで死別しますが、その結婚生活や、その後の『源氏物語』や『紫式部日記』の執筆も堤第で行われたと伝えられています。
    当時、堤第の付近には中川と呼ばれる川も流れていました。その風景は紫式部のお気に入りだったのでしょうか、『源氏物語』の中にもたびたび登場します。光源氏と長く関係が続いた花散里や、光源氏を拒んだ空蝉が身を寄せていた紀伊守の住まいは“中川のあたり„にあると書かれています。
    現在、廬山寺には平安王朝をイメージした庭園「源氏庭」があり、初夏から秋にかけてはキキョウが咲き誇ります。美しい庭を眺めながら、平安時代に思いをはせてみませんか。

    廬山寺

    廬山寺本堂。1794(寛政6)年に光格天皇の仙洞御所の一部を移築して建立された

    廬山寺本堂。1794(寛政6)年に光格天皇の仙洞御所の一部を移築して建立された

    廬山寺にある「源氏庭」。白砂と苔で描いた優美な曲線で平安王朝の趣を表現している。源氏物語の中でキキョウは朝顔として登場する

    廬山寺にある「源氏庭」。白砂と苔で描いた優美な曲線で平安王朝の趣を表現している。源氏物語の中でキキョウは朝顔として登場する

    光源氏が、中川付近にある紀伊守の住まいで囲碁を打つ空蝉らを垣間見ている様子が描かれている「源氏絵鑑帖」空蝉〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

    光源氏が、中川付近にある紀伊守の住まいで囲碁を打つ空蝉らを垣間見ている様子が描かれている「源氏絵鑑帖」空蝉〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

  • 葵祭
    物語の名場面「車争くるま あらそい」を想像しよう

    『源氏物語』 九帖 「葵」に登場する「車争い」。これは、祭りなど多くの人が集まる場所で、主人を乗せた牛車の置き場を従者たちが争うこと。紫式部だけでなく、清少納言も随筆 『枕草子』の中でこの事に触れています。
    『源氏物語』で描かれている「車争い」は、賀茂祭(かもまつり)の儀式のひとつで、祭りに奉仕する女性・賀茂斎院(かものさいいん)が身を清める「御禊の儀」の場で起こりました。この行列に光源氏が加わることになり、その姿をひと目見ようと多くの人が通りに詰めかけましたが、その群衆の中には光源氏の年上の恋人・六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の車もありました。その頃、御息所と光源氏は疎遠になっていて、それを心細く思っていた御息所が人知れず見物に出かけていたのです。そこへ到着するのが正妻・葵の上の牛車。六条御息所の車は押しのけられ、これに深く傷ついた御息所はその後平常心を失い、生きながら怨霊となって葵の上を苦しめてしまいます。
    現在、賀茂祭は葵祭として親しまれ、5月15日に平安装束を身にまとった行列が京都市内を練り歩く「路頭の儀」が有名。それに先駆けて様々な前儀があり、物語に登場する「御禊の儀」は「斎王代御禊(さいおうだいぎょけい)の儀」として5月4日に行われています。場所は上賀茂神社と下鴨神社、隔年交代ですが、今年は下鴨神社が斎場。物語のシーンや登場人物の思いを想像しながら、その儀式を見にでかけてみましょう。

    葵祭

    下鴨神社での斎王代御禊の儀の様子。 行列に参加する女性約40人が、境内にある「みたらしの池」に手を浸して身を清める。

    下鴨神社での斎王代御禊の儀の様子。 行列に参加する女性約40人が、境内にある「みたらしの池」に手を浸して身を清める。

    車争いの様子を描いている「源氏絵鑑帖」葵〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

    車争いの様子を描いている「源氏絵鑑帖」葵〈伝土佐光則筆〉(宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

  • 平等院
    平安時代の人々のあこがれの地

    宇治駅

    宇治川の西岸に立つ平等院は、一〇五二(永承七)年に藤原道長の子・頼通が、道長の別荘を寺院に改めたもの。道長と言えば、紫式部が仕えた中宮彰子の父であり、時の最高権力者。そんな道長の別荘は、元は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルのひとりとされる源融(みなもとのとおる)の別荘で、その後、宇多天皇らが所有したとも言われています。本尊をまつる鳳凰堂(正式には阿弥陀堂)には、平安時代の貴族の邸宅によく使われた寝殿造の影響が見られます。
    『源氏物語』の四十六帖「椎本」には、奈良での長谷詣の帰り道、光源氏の孫・匂宮が宇治にある光源氏の子・夕霧の別荘に立ち寄って管絃の遊びを催すシーンがあります。この別荘は光源氏から夕霧が譲り受けたもので、四十七帖「総角」でも紅葉狩りの舞台になっています。
    平安時代初期から貴族たちの別荘地として人気があった風光明媚な宇治の地。紫式部の生きた平安時代、宇治には平等院のような優美な建物が豊かな自然に包まれるように立ち並んでいたのかもしれません。

    平等院

    • 8時30分~17時15分(受付)
      ※鳳凰堂内部拝観は9時30分~16時10分
       (各回50名限定、受付は9時から)
    • 大人700円・中高生400円・小学生300円
      ※鳳凰堂内部拝観は300円が別途必要
    • 0774-21-2861
    • 京都府宇治市宇治蓮華116 MAP
    • 宇治駅下車 南西へ徒歩約10分
    • 詳しくはホームページをご覧ください

    現在の鳳凰堂。平安時代の遺構で、国宝に指定されている。

    ©平等院
    現在の鳳凰堂。平安時代の遺構で、国宝に指定されている。

    平安時代の宇治の想像図。美しい自然に包まれた宇治川の両岸に貴族の別荘が立ち並んでいた。

    提供:宇治市源氏物語ミュージアム
    平安時代の宇治の想像図。美しい自然に包まれた宇治川の両岸に貴族の別荘が立ち並んでいた。

    寝殿造の模式図。現在の鳳凰堂によく似ている。

    寝殿造の模式図。現在の鳳凰堂によく似ている。

  • 宇治市源氏物語ミュージアム
    国内唯一!『源氏物語』専門の体験型博物館

    宇治駅

    『源氏物語』の最後の十帖「宇治十帖」の主な舞台となった宇治にあるのが「宇治市源氏物語ミュージアム」。国内でもめずらしい『源氏物語』と平安時代の文化をテーマにした博物館で、展示物を見るだけでなく、実際に様々な体験ができるコーナーや映像展示室などもあり、楽しみながら、その魅力に触れることができます。さらに、映像展示室で上映されているオリジナルアニメをよく見ていると原作を思わせるシーンも。初めて『源氏物語』に触れる人はもちろん、長年のファンも楽しめる博物館です。

    宇治市源氏物語ミュージアム

    感じる 六条院(模型)

    六条院(模型)

    『源氏物語』の主人公・光源氏の邸宅・六条院は約63,500m2、京セラドーム大阪ふたつ分ほどの広さがあります。精細な模型の中には牛車も置かれており、すぐ隣に展示されている実物大の牛車と見比べてみると、六条院の広大さを実感することができます。

    実物大の牛車

    体験する 垣間見(かいまみ)

    六条院(模型)

    平安時代、貴族の女性が男性に顔を見せることはありませんでした。しかし、男性が垣根などの外から偶然女性の姿を見て恋心を抱くことがありました。これが垣間見です。室内の明かりの効果によって、外にいる男性は、女性に気づかれることなくその姿を見ることができたのです。

    垣間見

    浸る 「宇治十帖」物語シアター

    六条院(模型)

    「宇治十帖」のシーンを再現した模型などが照明による演出で暗闇に浮かび上がります。その風景を見ていると、平安時代に入り込んだような感覚になります。

  • 光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館
    大河ドラマの世界を体感しよう

    石山寺駅

    紫式部が『源氏物語』の着想を得たと言われる滋賀県大津市の石山寺。その境内にある明王院に「大河ドラマ館」がオープンします。「光る君へ」のキャスト・スタッフのインタビューなどここでしか見られないオリジナル映像が上映される4Kシアターのほか、撮影の舞台裏に迫った特集パネル、撮影で実際に主人公まひろ(紫式部)が身に付けた衣装や小道具などが展示されます。

    同時開催

    源氏物語 恋するもののあはれ展

    源氏物語 恋するもののあはれ展

    境内の世尊院では、「恋」をテーマに平安時代の文化を楽しく体験できる企画展を開催。人気イラストレーターによる源氏物語の和歌を題材にした描き下ろしイラストや、オリジナル楽曲によるミュージックビデオが登場。さらに色・花・香りを通して平安時代の文化を体感することもできます。

    光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館

    • 開催期間
      1/29(月)~2025年1/31(金)
      ※開催日・開館時間は予告なく変更となる場合があります
    • 開催時間
      9時~16時30分(入場)
      ※1/29(月)は14時開館予定
      ※石山寺の拝観は8時~16時(受付)
    • 会場
      光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館:石山寺 明王院
      源氏物語 恋するもののあはれ展:石山寺 世尊院
    • 料金
      展示入館券:大人600円・小学生300円
      石山寺セット券:大人1,000円・小学生450円
    • 滋賀県大津市石山寺1丁目1-1 MAP
    • 石山寺駅下車 南へ徒歩約10分
    • 077-500-0100(JTB滋賀支店)
    • 詳しくはホームページをご覧ください

    >会場となる石山寺明王院

    会場となる石山寺明王院

    同時開催

    源氏物語 恋するもののあはれ展

    源氏物語 恋するもののあはれ展

    境内の世尊院では、「恋」をテーマに平安時代の文化を楽しく体験できる企画展を開催。人気イラストレーターによる源氏物語の和歌を題材にした描き下ろしイラストや、オリジナル楽曲によるミュージックビデオが登場。さらに色・花・香りを通して平安時代の文化を体感することもできます。

  • 石山寺
    月光に導かれて生まれた
    『源氏物語』

    石山寺駅

    今回ご紹介するのは、滋賀県大津市にある石山寺です。石山寺には紫式部がこの地で『源氏物語』の着想を得たという伝説があります。
    宮仕えをしていた紫式部が、中宮に新しい物語をせがまれこの地に籠っていた時に、びわ湖の湖面に映る月を見てふと “光る君„ の姿が思い浮かんだそう。その時に書いたのが『源氏物語』の十二帖『須磨』にある「今宵は十五夜なりけり」と始まる一節だと言われています。
    平安時代、貴族の間で都から離れた社寺を参詣する物詣(ものもうで)が流行しました。宮中の女性たちに特に人気だったのが石山詣。石山寺の本尊・如意輪観世音菩薩〈秘仏〉が、京都の清水寺、奈良の長谷寺とともに三観音に数えられるほど信仰を集めていたこと、また、京の都からのアクセスが良く、雄大なびわ湖の風景を楽しめることもその理由だったようです。
    平安時代の女性たちが癒やしを求め、紫式部が心を研ぎ澄ませるために向かった石山寺を訪れてみませんか。

    石山寺

    • 077-537-0013
    • 滋賀県大津市石山寺1丁目1-1 MAP
    • 石山寺駅下車 南へ徒歩約10分

    平安時代に再建された本堂〈国宝〉。写真手前の火灯窓の小間『源氏の間』に紫式部が籠ったと伝えられている

    平安時代に再建された本堂〈国宝〉。写真手前の火灯窓の小間『源氏の間』に紫式部が籠ったと伝えられている

    寺名の由来にもなった硅灰石(けいかいせき)が境内で圧倒的な存在感を誇る。上に立つ多宝塔も国宝。1194(建久5)年の建立で日本最古のものとして知られている

    寺名の由来にもなった硅灰石(けいかいせき)が境内で圧倒的な存在感を誇る。上に立つ多宝塔も国宝。1194(建久5)年の建立で日本最古のものとして知られている

    江戸時代の画家・土佐光起の筆による「紫式部観月図」<石山寺蔵>。秋の名月を眺めながら筆を持つ紫式部が描かれている

    江戸時代の画家・土佐光起の筆による「紫式部観月図」〈石山寺蔵〉。秋の名月を眺めながら筆を持つ紫式部が描かれている

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