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なぜ、枚方だったのか?

大浅田:枚方市駅には社有地があった関係で、そこの活用をどうするかという点については30年以上も前から社内で何度も議論され、計画が検討されてきました。枚方市は人口約40万人の中核市で、京都と大阪を結ぶ京阪本線のほぼ中央にあり、枚方市駅の乗降人員はコロナ禍前で約9万6,000人と京阪電車にとっては3番目に多いお客さまの数を抱える重要な駅です。支線の交野線との乗り換えに加えて、バスの1日あたりの発着便数も約1,000便、いわば郊外交通の結節点です。それだけに、いかに枚方市の魅力向上につなぐ自社開発ができるかは京阪グループ全体のミッションと捉えられていました。

林:枚方市をデータでみると、この30年だけでいえば人口はそんなには減ってはいないんですね。ただ、20~39歳までの年齢層での人口を比べると激減していて、大学生に至っては45%くらい減っています。このまま若い世代や世帯の流入のないまま人口減少へと転じていけば、まちは確実に活力を失っていきます。京阪グループとしての長期的な経営戦略「沿線再耕」に照らしても、枚方においてこれからの時代にふさわしい開発を駅を起点にどう始めるかは、沿線のその他の駅周辺開発をどのように位置付けるか、という意味でも非常に重要でした。

寒川:私は大阪出身で、京都に先祖のお墓がある由縁で幼い頃より家族全員で京阪電車をずっと使っていました。私自身にその記憶はないのですが、枚方市駅って昭和の頃に1度再開発をしているんですよね?

大浅田:はい、そうですね。1969年に公布・施行された「都市再開発法」に則って55年前に高架駅にして踏切を無くし、駅前にロータリーを作って、駅前ビルとペデストリアンデッキ(高架型歩道)でつなぎました。モータリゼーションに合わせた設計で、全国の都市でそうした設計が採用されました。しかし、それは55年前の最先端の姿なんですね。そのまま時が止まっている状態が続いており、老朽化とまではいかないけれど様々な部分で時代とそぐわなくなってきていました。そこを新陳代謝させていかなければならないし、それによって若い世代の流入が減っている等の枚方市の課題にも応えていく必要があると考えたのが、今回の再開発の起点です。

京阪ホールディングス株式会社
執行役員
枚方市駅周辺開発室 部長

大浅田 寬(おおあさだ ひろし)

■高架化以前の枚方市駅

住みたくなるまちにしていこう

林:まちづくりって、非常に時間がかかります。何年も何年も種まきをして、育てて、やっと花咲く頃にまちが良くなっている。新しく住む人が増えると、人口も増えて、若い世代も増える。人がたくさん住むと、まちへの投資もされるので好循環が生まれます。そうなるとあらゆる事業も成立して、豊かなサイクルがどんどん派生していく。ただ、そこにいくまでの過程がなかなか目に見えにくいし、目にみえる利益をすぐに生まないということもあり、理解が進みにくかったんですね。しかし、これからの時代には、まちづくりを視野に入れた開発が大事だという認識は世の中にすでに大きく広がっているのを感じます。

大浅田:今回のプロジェクトは、実は国や他の自治体からも注目されています。それは、なぜか。どこも同じ課題を抱えているからです。50年前に再開発をしたけれど、次々と時代に合わなくなってきている。この枚方市駅周辺の再開発は、日本の今後のまちづくりに先鞭をつけるためにも成功させないといけない使命を担っていると自負しながら進めてきました。

林:いろいろ勉強をして、たくさん検討もして、最終的に「このまちに住みたくなる」要素を作っていこうと決めました。そのためには、つくって終わりではなく、まちを育てていかないといけない。育てるまちづくりを続けていくためには、まちのキーマンが大事と考え、キーマン探しから始めることにしました。

京阪ホールディングス株式会社
枚方市駅周辺開発室 課長

林 友美(はやし ともみ)

枚方をともに動かす
キーマンを探せ!

寒川:地元の人とともに進めた再開発って、京阪の中では今回がほぼ初めてですね。

大浅田:枚方の再開発の最大の特徴として、我々の土地が駅前の一部しかない点が挙げられます。そこだけを開発してもまちをダイナミックに変えていくようなうねりは生み出せません。まち全体で枚方の課題を解決しようと思うと、その土地の人を巻き込まなくてはならないという結論にたどり着いたんです。そこで、当初は市に対しても社有地だけでなく市役所やニッペパーク岡東中央(駅前にある公園)を含む駅周辺一帯のまちづくりを提案しました。それで地域の方にも賛同いただこうと商工会議所の門を叩いた時に、地域振興委員長として臨席されていた宮田さんと出会ったのです。それが、2016年1月のことでした。(※宮田さんにはこのコーナーの3回目にご登場いただき、たっぷりとお話をお伺いする予定になっています)

寒川:宮田さんは枚方青年会議所の理事長や北大阪商工会議所のまちづくり委員長なども歴任されておられる、まさに地元のキーマンですが、反応はどうでしたか?

大浅田:「京阪はこんなことを考えています」と宮田さんに提案した時、すごく賛同していただいて、うれしかったことを憶えています。一方で「やっと来てくれたか」というコメントもあり、これまで京阪が地域に入り込んでまちづくりを進められていなかったことを痛感しました。また、林さんといろんな講演会や勉強会に顔を出して学識経験者の方々のお話を伺っていく中でも、自分たちの考えているベクトルは間違えていないと確信を深めていきました。そうしたことを踏まえて、再開発に先行する形で、まず枚方市駅中央改札口のリニューアルに着手することになりました。この動きは、再開発への京阪の本気度を示す意味合いも込めていました。

京阪ホールディングス株式会社
枚方市駅周辺開発室 課長

寒川 貴弘(そうがわ たかひろ)

そして、生まれた。「えきから始まるまちづくり」

林:枚方市駅のリニューアルにおいては、「新しいまちづくり 駅からはじめます」と宣言することから始めました。先ほど述べました通り、これからのまちづくりは、まちを育てる視点が不可欠になります。私たちは鉄道会社を母体とする企業として、駅にしかできないこと、駅だからできることを基盤にして、公共交通の結節点でありあらゆる人が利用できる場所であることを活かしたサービスを提供することで新しいまちづくりにつなげていきたいと願いました。この宣言は、これからの時代にふさわしい新しいまちづくりにおいて駅が担うべき役割を果たしていくという京阪としての意思の表明であり、また、単なる駅の美装化ではなく、地域性と歴史性を踏まえ、駅をコミュニケーションが生まれる「まちの拠点」にしていくという思いも込めました。

大浅田:無印良品を展開する株式会社良品計画さんとのコラボレーションによる新しい駅空間の創出、また、駅ナカ商業「ひらかた もより市」の開業や改札外コンコースの「もより市広場」でのマルシェやイベントの開催など、それまでの駅ではなしえなかったチャレンジを多く採り入れましたが、市民の皆さまにも喜んでいただき、評判も上々でした。この駅リニューアルの成功が再開発事業に弾みをつかせることになりました。

寒川:社内的にも、枚方市駅のリニューアルで潮目が変わりましたね。それまでは社内的にも「枚方の開発って30年動かなかったのに本当に動くの?」という懐疑的な声が多かったのは確かです。

■2018年 枚方市駅がリニューアルグランドオープンし無印良品とのコラボレーションで誕生した駅空間。駅ナカマルシェなどこれまでにない取り組みも

枚方市駅リニューアル成功から
変わった
空気

林:寒川さんも京阪電気鉄道の電気部として枚方市駅のリニューアルに携わられたんですよね?

寒川:はい、電気部としてリニューアル計画で示されたものをどう実現するか?という立場にいました。その時は、今の立ち位置や考え方とは正反対でした。リニューアルのデザイン案や概念とぶつかることが正直多くて。「駅の技術指針はそうじゃない!」などと何度も闘いました。一番鮮明に思い出すのはコンコースの照明ですね。朝から晩で光が都度変わっていくと言われても鉄道駅の照明で調光や調色をするなんて前代未聞でしたから、「その明るさは駅の安全指針から外れている!」とか「お客さまの安全面で何かデメリットになったらどうするんだ?」と言ったことを申し入れました。とにかく、いろんな点で自分の想像を超えているリニューアルでしたので。ただ、結果的に出来上がったら雰囲気がすごく良くて、一気に理解ができたんです。オープンの日も、とにかく心配だったので朝に照明を設置してから夕方に見に行ったところ大勢のお客さまから「すごい!」と感嘆の声が上がるのを耳にして「ああ、こういうことだったのか」と実感しました。変えていくことの意味と意義を、肌身でしかと感じた瞬間でした。

大浅田:枚方市駅のリニューアルの成功によって、駅周辺の再開発プロジェクトも大きく進展します。枚方市からも駅前広場を拡張するために、市街地再開発事業として社有地を含めた駅前を一体的に開発できないか?と正式な申し入れがありました。単独開発ではなく、区分所有者となることで生じる課題への懸念なども正直よぎりましたが、やはり枚方市の魅力向上へつなぐまちづくりへ貢献するために、市街地再開発事業での枚方市駅周辺再開発を本格的に始動させることになりました。

コロナ禍での船出となった
再開発組合結成

大浅田:2018年10月には、周辺地権者の方々との勉強会などを始めました。枚方市駅がリニューアルオープンした12月には準備組合が組成され、2020年3月には枚方市駅周辺地区市街地再開発組合が設立されました。再開発区域内に地権者が少なく、皆さんの再開発に対する期待も大きかったことで再開発事業としては、異例のスピードで進んだかなと思っています。もちろんいろんな困難が立ちはだかりましたが、枚方のまちづくりへの強い想いを皆さんが共有してくださったおかげですし、地権者でもない宮田さんが再開発組合の理事長という重責を快諾くださったおかげでもあります。

林:ただ、せっかく再開発組合が立ち上がり、みんなで団結してやっていこう!と言った時に新型コロナウイルス感染症に見舞われて苦難の船出となりました。一方でハード担当の方々にとっても再開発事業ってすごく難しい部分が多かったと思います。自社でビルを建てるのであれば自社内で何とでもできるところがありますが、いろんな法律が複雑に絡み合って。

寒川:自分がどの立場で話をするのか、それが最初すごく難しかったです。京阪の事業でしょ?と言われる場面でも我々だけでは判断できなかったりすることも多くて。ひとつずつ自分のポジションを確認しながら作業せねばならず苦労しました。

林:そうですね、建築の法律だけではなく鉄道の法律も絡んできますので。再開発組合ができるまでに私もかなり勉強しましたが、実際動き出してからも次々と新しい難問が湧き出してくるので頭を抱えることが多かったです。

寒川:これはしてはいけない、これはこのルールで、と学ぶべきことが山積でした。とりわけ、地権者さんの絡む案件は初めてだったので戸惑うことも多かったです。自社の開発であれば、ここは狭いから広げようとか、ここは無駄なスペースだから閉じようとか自由にできます。でも、全部権利なので、面積も0.00㎡までかっちり合わせないといけない。「ここを減らさないと」という事態になるたびに、どこを減らすか?と再開発組合の事務局と捻り出しながら計画していきました。

林:地権者さんたちとも勉強会や準備組合でともに学びましたよね。

大浅田:実際、単独開発の方が格段にラクなんです。しかし、やはり、まち全体をよくするために、京阪としてはあえて官民一体の茨の道を選んだわけです。そもそも再開発事業って20年とかかけてやるものですけれど、ここのプロジェクトは再開発組合が出来てからわずか4年で仕上げている。しかも、ちょうどコロナ禍の間に。これは、もう、みんなで成し遂げた奇跡です。

京阪DNAを継承した
まちづくり

大浅田:最後に少し歴史を振り返ります。かつて京阪電車の西の終点は天満橋駅でした。1963年、淀屋橋駅まで延伸した際に天満橋駅は地下駅になって、地上には新しい駅ビルができた。そうしたら、周囲にどんどんビルが建っていったんですね。駅が変わると、まちが変わる。淀屋橋までの延伸を提唱し続けた我々のある先輩(故中西徹氏)は、そのことを目の当たりにして確信します。その先輩は1960年代にアメリカに視察に行き、木陰のある遊歩道に沿って路面店が並ぶ新しいまちづくりのスタイルであるMALL(モール)に感銘を受けて帰国します。そして京橋駅を新しくする際に「京橋にまちをつくる!」と言って、駅と一体型になった日本初のモールをつくりました。それが今に引き継がれている京阪ショッピングモール(現京阪モール)です。そういうわけでモールという言葉を日本で最初に使ったのは京阪なんですが、ふり返れば、その時代から京阪は駅からまちを変えていくことをやり続けてきているんですね。今、私たちが取り組んでいることも京阪のDNAだとつくづく感じます。このDNAをさらに進化させて、次の世代にバトンタッチしていくことが大切だと考えています。

■1970年に京阪京橋駅の高架化に伴い、日本初のショッピングモールとして開業した京阪ショッピングモール

■今回のインタビューに参加いただいた、左から林課長、大浅田執行役員、寒川課長

2024年5月掲載